2011年04月07日

ノモンハン・満洲里への個人旅行

(2007年10月27日記)

ノモンハンに行ってきた。
ノモンハンと呼ばれる地域は、中国とモンゴル共和国の国境線付近に位置する、大草原の中に小さな集落があるだけの、なんということのない場所。こんな場所を歴史の舞台として強く意識しているのは、多分、日本人だけだろう。

長く中国で暮らしていると、軍事分野への興味が徐々に増してくる。テレビでも新聞でも軍事関係の報道が多いからだ。いつもどこかの新聞が一面で軍事記事を大きく扱っている。加えて、テレビでは年がら年中、日本軍が出てくるドラマを放映している。

日本の戦史上重要な意味を持つノモンハンに行ってみたくなったのには、そういうわけもある。

以下、簡単ですが旅行記です。


ノモンハンへの行き方

ノモンハンは、モンゴル共和国との国境付近に位置する。ノモンハン事件の主戦場となったハルハ川はモンゴル側にあり、中国からは行けない。でも、その近辺一帯が戦場だったのだから、概ねその地域まで辿り着ければ十分だ。そういう訳で、今回は中国側からノモンハンまで行ってみることにした。中国語でノモンハンは「諾門罕」と書く。中国側には、その名も「諾門罕村」という集落もある。

ノモンハンの場所
nomonhan1.png.PNG

しかし、どうやって行ったらよいのか、資料がない。
インターネットで検索しても、個人で行った記録はあまり見当たらない。わずかに発見したサイトでも、ハイラルの旅行社で1日4万円を払って車とガイドを手配してもらったという記載がある程度。1日4万円は高すぎる。
でも、とにかく、ハイラルからノモンハンまで車で日帰りできることは分かったので、とりあえずハイラルまで行ってみることにした。あとは現地で考えようと。

ハイラルまでは汽車がある。
上海から寝台列車でハルピンへ。午前10時頃に上海を出発し、翌日午後5時過ぎにハルピンに到着。満州里に向かう夜行列車に乗り換えて、翌朝7時頃にハイラルで下車。上海からハイラルまで、あわせて0泊3日の汽車の旅だった。


ハイラル

早朝のハイラルは、10月初めだというのに雪が降っていた。半そで綿シャツの私は、汽車を降りてホームを歩いている時点で、すでに凍えそうだった。駅を出ると、まだ早いからか辺りは閑散としていて、駅前広場にタクシーが数十台、客待ちをしていた。

ノモンハンへの行き方を調べなくてはならない。
あたりをつけようと、駅の売店でホロンバイル盟の地図を買った。
駅前の小さな食堂でワンタンを注文し、地図上でノモンハンを探していると、観光客と見た主人が声をかけてきた。
「旅行か」
と聞くので
「ノモンハンに行きたい」
と答えると、タクシーをチャーターして行けとのこと。
そうは言っても、往復500キロ近い行程なので、そんなに簡単に行ってくれるのかと思ったが、主人の口ぶりでは全然問題ないような感じだ。

そこで、駅前広場で客待ちしているタクシーと個別交渉を試みることにした。
しかし、何人かの運転手と話してみたものの、ノモンハンまでは行ったことがなかったり、言い値が高すぎたりで、なかなかよい人が見つからない。
大草原の真っただ中まで一緒に行くのだから、あまりタフに値切るのも後々が心配だ。できれば言い値に近い金額でお願いできる人に頼みたい。
そのうちに、ある運転手が「自分は行けない」と言いつつも、携帯で友人に連絡をとって尋ねてくれた結果、500元(約7000日本円)で往復してくれる人を紹介してもらえることになった。20分くらいで迎えに来てくれるという。

迎えを待つ間、外は寒いので、彼の車の中で雑談をして過ごした。
彼はずいぶんと日本の自動車を褒めてくれた。特にホンダの車は素晴らしいと。そんな話をした後、ちょっと微妙な質問だけれども、
「この街には戦後、日本人が住んでいたか」
と尋ねてみた。残留孤児について聞いてみたのだ。
「昔は知り合いにいたけれど、国交が回復した後、日本に帰った」
とのことだった。
彼の近所に日本人女性が住んでいて、中国人と結婚して子供もいたが、国交回復後に夫と子供を連れて日本に帰ったらしい。
どういう経緯で、こんな僻地に日本人女性が単身で残されていたのか。大戦末期にソ連が侵攻してきた地域なので、壮絶な体験をされたのではないだろうか。とり残されて、生きるために中国人と結婚し、子供を生み、現地の一庶民として静かに暮らしていたのかも知れない。

そうこうしているうちに、ノモンハンまで行ってくれるタクシーがやってきた。
運転手は50代の実直そうな男性で、気に入ったので、お願いすることにした。
値段は往復で500元(約7000円)。往復500キロ近い行程なので、高くない。

ちなみに後日確認してみたら、ノモンハンが属する地区は、外国人が自由に旅行できる「開放地区」に指定されていない。従って本来は事前に公安局に出頭して旅行証を取得しなければならない。これを怠ると警告または500元以下の罰金に処せられる。そのうえ、ハイラルの公安局は地元の旅行社経由でないと外国人旅行証の申請を受け付けないらしい。


ノモンハンへ

ノモンハンに向けて出発する前に、準備が必要らしい。
私を乗せたタクシーは、まず運転手の自宅に戻った。簡素な平屋の戸建住宅の前に車が止まると、愛想のよい大きなイヌと息子さんが出てきた。
運転手は、何やら工具を使って、車のルーフのタクシー灯を取り外した。なぜ外すのかと尋ねたら、
「面倒だから」
とのこと。
なんだか訳が分からないが、あえてそれ以上は尋ねなかった。
次に、家から消火器を運んできて、後部のトランクに入れた。「草原防火条例」という法律があり、草原地域に入るときには消火器を携行しなければならないらしい。

出発準備をしている運転手に、
「途中で検問があっても、日本人を乗せているとは言わないでほしい」
と言ったら、うんうんとうなずいて、
「わかっている。」
と答えた。

息子さんとイヌに見送られて運転手の家を出た後、公安局に寄って、「草原防火条例」関係の許可証を取得し、準備完了となった。許可証がないと草原地域には入れないらしい。

車はハイラルの町を離れて草原の一本道をひたすら走る。

sogen2.jpg
(クリックで拡大)

なお、写真の画質が著しく悪い理由は、このときデジカメが故障していて、ハルピン駅前の雑貨屋でかったおもちゃのようなフィルム式カメラで撮っているからである。プリントしたものをスキャンしてデジタル化しているので、二重に画質が悪くなっている。ご勘弁願いたい。

ノモンハンまでは220キロ程度だが、途中160キロ程度のところに小さな町がある。アムグラン(阿穆古郎)という町で、実はハイラルからアムグランまでは長距離バスが頻繁に出ている。アムグランは小さな街だけれど、街中ではタクシーも普通に見かけた。
結果的に言えば、ハイラルからアムグランまでバスで行ってから車を雇えば、残りはノモンハンまで往復120キロ程度なので、旅費がかなり節約できたはずだ。
しかし、これは後からわかった事で、当初はアムグランで車を手配できるかどうかも分からなかったので、しかたない。

なお、参考までに書いておくと、ハイラルの長距離バスターミナルは、駅を出て左手の陸橋で線路を渡った先にある。駅前からタクシーで行くなら10元。
また、アムグランの現地語での表記は「阿穆古郎 OR 新巴尓虎左旗」と一定せず、紛らわしいのでご注意を。


アムグランまでの間に、小さな集落が2つあった。運転手に尋ねると、
「公社だ」
とのこと。
「公社って、昔の人民公社みたいなものか」
と尋ねたら、
「そう」
いまどき、そんなものあるのか?
民族自治区なので、社会制度も一般の地域とは違っているのだろうか?

大草原の1本道なので、猛烈なスピードでぶっ飛ばす。たまにやってくる対向車とすれ違う時にはやや減速するけれど、中央分離帯のない道路で対向車と高速ですれ違うのはかなり怖い。

michi2.jpg

前方に対向車が見えるたびに双方がヘッドライトをパッシングして合図をかわしている。どういう意味かと運転手に尋ねたら、
「居眠りしていないことをお互いに確認している」
とのことだった。


ノモンハン

ハイラルから2時間半くらいで、ノモンハンについた。
途中で検問があると面倒だなと思っていたが、何もなく、あっさりと着いてしまった。

ノモンハンは小さな集落のほかは一面の草原があるだけだけれど、一応、簡単な展示館があると聞いている。途中に軍の国境監視所があったので、場所を尋ねた。
ノモンハンの集落を越えて少し行くと、一面の草原の中に、広さ200平米くらいの平屋のプレハブが建っていた。これが展示館だった。

tenjikan2.jpg

簡易な柵で囲まれた敷地内には、長さ数十センチの砲弾が無数に置かれていた。なぜか全部立ててならべてある。展示館の横で、旧日本軍のものらしき戦車が朽ちていた。

来客に気づいたらしく、中年の痩せた女性が建物から出てきて、入場料10元を払えと言った。ここまでは想定内だった。しかし、私が日本人と判明した途端に80元に値上がりしたのにはあきれた。

展示室には、日本軍の砲弾(24キロもある)や、錆びたヘルメット、金属製の食器類、その他の遺留品が多数並んでいた。
日本人は館内で写真を撮ったらプラス10元だと言われたので、隠し撮りをしたら手振れでまともに写っていなかった。残念。

展示室の壁には沢山の写真が掲示してあった。ノモンハンで戦闘があった当時の写真だ。日本兵の写真の下には「侵略者たち」とキャプションがついていた。ソ連兵が笑っている写真の下には「勝利の喜び」と書いてあった。

備え付けの雑記帳には、多くの書き込みがあった。
その中には、
「この歴史を公開すべきだ」
というピントはずれのものもあった。
旧日本軍の大陸における作戦が多くの人々に詳しく研究されているという事実を、一般の中国人は知らない。

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展示館の周囲には、かつて戦場だったことを思わせるものはなかった。草原があるだけだ。雲の陰が地面に黒い模様を作っているのが不思議な感じ。草原に映る雲の陰はなぜあんなにコントラストが強いのだろう。

ハイラルへの帰途は、あと40キロの地点でガス欠になるトラブルがあったが、ガソリンをポリタンクで持ってきてもらい、午後5時頃には無事帰着。ガス欠のトラブルさえなければ、4時には帰りついたはずだ。
走行距離は全部で470キロ。運転手さん、急なことだったのによくがんばってくれました。お疲れ様でした。

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救援に持ってきてくれたポリタンクから給油中。手前にいるのが運転手

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黄色の線が、この日往復したルート

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ノモンハン付近


満洲里へ

夕方、ハイラルからバスでロシア国境の満洲里へ。
草原の中の新しい高速道路を快調に走り、2時間半くらいで満洲里に到着。

満洲里は、もう少しひなびた町を想像していたが、2年ほど前にメインストリートのビルを全部建て替えたそうで、長崎ハウステンボスみたいな町並みだった。
商店の看板は中国語とロシア語が半々。繁華街のレストランは殆どがロシア料理。ボルシチがおいしかった。
ウオッカは雑貨屋でペットボトルで売っており、500ミリリットル入りが2元(約30円)。値段を聞いて思わず、「そんなに安いの!」と言ったら、「安いか?」と言われた。
飲んでみたら、普通のちゃんとしたウオッカだった。
余計なお世話かも知れないが、こんなに安く酒を売るから、ロシア人男性の25%が50代前半で命を落とすのである。

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満洲里のメインストリート

満洲里は、中国人がロシア人相手に商売をやるための町。
商店のおばさんも、食堂の女の子も、路上で服を売っているおにいちゃんも、みな流暢なロシア語を話す。
ロシア人にとっては、中国は「物資の豊富な国」ということになるらしい。その上、彼らはノービザで満洲里の国境を越えられる。町中がロシア人だらけだ。

メインストリート沿いには、個人商店が何百件も入った大きなビルがいくつも建ち並び、繊維製品から電化製品まで、何でも揃っている。値段は基本的にルーブル表示。
ホテルの宿泊客もロシア人が多い。朝食を食べにレストランに行ったら、ロシア式の朝食しかないと言われた。ちなみに中国の普通のホテルだと、朝食の主役はおかゆだ。しかし、満洲里では事情が違う。
メニューを見てもわからないので、周りのロシア人が食べているのを指差し注文して食べてみたら、結構おいしかった。ミンチを棒状にして焼き卵で包んだものと、薄いボルシチと、インスタントコーヒーと、パン。

翌日午前中にはロシアの国境ゲートを見学した。このゲートは、以前に写真で見て非常に印象に残っていた。大草原にポツンと建つ国家の門。これを見るのも今回の旅の目的のひとつだった。

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ロシア側の国門を中国側から見る。手前にいるのは人民解放軍の兵士たち。

国境の写真を何枚も撮っていたら、警備の兵士に、
「もうそのくらいにしておけ」
と言われた。

本来は手前に中国側の大門(国門)があるのだが、ちょうどこのときは立替工事中で撤去されていた。写真の右手前には、国境を示す中国側の石碑が見える。

この国境ゲートは市内から少し離れたところにある。市内からはタクシーで往復40元〜50元(現地で20分ほど待ってもらう分も含む)。ゲートの手前はちょっとした公園になっていて、入り口でチケットを買う。入場料は20元だった。

お昼には市内に戻ってロシア料理屋でポテトとボルシチを食べ、昼過ぎに北京ゆきの汽車に乗り込んだ。北京到着は翌日の夜9時過ぎ。この日は寝台車で眠ることになる。

eki2.jpg

これは満洲里駅のホームの駅名表示板。下段の中央に書いてあるマークのようなものはモンゴル文字。その左側に書いてある隣の駅は、もうロシアの駅名だ。



posted by 陳ゆう at 21:00 | 旅の記録 ノモンハン・満洲里 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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